『猫の舌に釘をうて』──束見本を題材にした推理小説

束見本は、印刷されていない真っ白な本

左から、平安書店(1974年)、講談社文庫(1977年)、光文社文庫(2003年)。1961年刊行の初版本はAmazonで調べたら5000円くらいで売られていた

突然空白ページが現れる。空白ページが一番多いのは平安書店の本で9ページ。講談社文庫は6ページ、光文社文庫5ページ。折り丁の都合もあるのかもしれない

ノドの奥に数行で組まれた文字。事件の真相が綴られている

はじめに「束見本(つかみほん)」の話をしよう。

 

束見本は、本を大量に印刷・製本する前に、実際に使用する用紙を使って試しに製本したものだ。部数は必要ないので、印刷会社に頼んで数部作ってもらう。束見本が手元にあると、印刷・製本・加工後の体裁がわかるので、ページの開き具合や本の厚み(背幅、束)、重量、手触りなどが確認できる。

 

束見本は印刷処理は全く施されないため、カバーも、表紙も、本文も真っ白な本が出来上がる。最近は本屋さんでも、何も印刷されていない真っ白な本が売られている。日記やメモ帳として利用したり、自分で絵を描いて絵本にしたりと、利用法はさまざまだ。そうした本を思い浮かべるとよいだろう。

 

本文の紙は、扉の前に種類の異なる遊び紙を入れたり、口絵などのカラーページにだけ印刷発色のよい紙を綴じ込む場合もある。こうしたページの割り振りは編集者が行い、用紙の指定は造本家やデザイナーが行うのが一般的だが、印刷会社は指定通りの束見本を仕上げてくれる。上製本の場合は、製本様式を細かく伝える必要がある。上製本に特有の「見返し用紙」や、「花布(はなぎれ)」、「スピン(しおり)」の種類の指定もこの段階で行うことができる。

 

装幀のデザインを行う際には、本の寸法を正確に知る必要があるが、背の厚み(背幅)は束見本を実測して得られる。しかし、製本会社の方から聞いた話だが、束見本の作り方は機械による大量生産の場合とは異なるので、厳密に言えば、束見本は正確な仕上がり見本とは言えないそうだ。特に外箱を作る場合は、本の寸法をより正確に把握する必要があるため、大量に生産した本が出来上がってから箱の寸法を決めるのが安全なのだそうだ。

 

さて、束見本を題材にした推理小説がある。都筑道夫(つづき みちお、1929年 - 2003年)氏の『猫の舌に釘をうて』という作品だ。1961年、東都書房から刊行され、のちに講談社文庫、現在では光文社文庫から刊行されている。僕がこの作品を初めて読んだのが二十歳を少し過ぎた21〜22歳の頃だったと記憶しているので、1980年前後だろうか。かなり古い作品であるが、当時、その仕掛けやトリックの大胆さに驚かされた。束見本の構造を利用した仕掛けになっているのだ。物語のプロットも実にアクロバティック。

 

物語の大筋を簡単に説明しよう。主人公の淡路瑛一(あわじ えいいち)は低俗な雑誌に雑文を書いて生計を立てているライターだ。仕事柄、自宅には束見本がある。主人公の身近に起きた殺人事件をきっかけに、束見本に手記(日記)を書き始めたところから物語は始まる。読者は主人公が書き残した日記風の手記を読むことになる。

 

警察は淡路瑛一に容疑を向ける。淡路は、真犯人を見つけるために探偵の役割を果たすことを決意する。自分の身の潔白を示すために束見本を日記帳代わりにして手記を書き残す。さらに淡路自身も命を狙われ、被害者にもなる。プロットとしては、主人公が事件の犯人であり、探偵であり、被害者であるという一人三役の構造だ。

 

少し種明かしをしてしまうが、小説の最後に数ページの空白がある。束見本なので、空白ページは不自然ではない。いきなり空白ページが何ページも続くので、最初は何事かと思った。現在市販の本ではノンブルのみが付いているが、初版の本ではノンブルも付いていなかったので、印刷事故と思われ返品が相次いだそうだ。

 

事件の真相は、空白ページのノド奥に書かれている。本をぱらぱらめくっただけでは、警察は気付かないだろうという主人公、淡路瑛一の意図である。

 

当時学生だった僕は、この本に出会ったことで束見本の存在を知った。僕が編集サイドから本作りに関わるようになるのはそれからずっと後になるが、たぶんこの本のおかげで、本に対する見方が深まったと思う。物語のプロットと造本設計は密接に結びついているし、アイデア次第でいろんな可能性が広がるということもわかってきた。

 

最近、若い人にこの話をしても反応がイマイチなので、ちょっと寂しい思いでこのテキストを書いている。当時(僕が生まれる少し前)の世相がわかるし、舞台になっている新宿、池袋、大塚、関口、小石川が仕事場から近いこともあって、今でもたまに読み返すといろんな発見がある。また、江戸文化や寄席芸能から得た言葉遊びが随所に散りばめられているのも、この小説のおもしろいところなのですけど。

 

 

──追記(2016年2月27日)


ついに買っちゃった。「猫の舌に釘をうて」、東都書房の初版本。念願叶って、ノンブルのない空白ページが見れた。こんなページが何ページも続くと大概の人が返品したくなる、という曰く付きのページだ(左の写真参照)。

 

書棚に、これも貴重本である「笑点」(立川談志 著)と一緒に並べてみた。落語好きの都筑さんも喜んでくれると思う。

 

さらに、講談社文庫のKindle版が出ていることを知った。空白ページの文字組がどのように処理されているか気になるところだ。

東都書房版の初版本を古書店で購入。空白ページにはノンブルもないので、一瞬ドキリとする

東都書房版の初版本はこちらから→

講談社文庫[Kindle版]

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